
はじめに
Kentucky Route Zero PC/TV editionでの日本語改訳版の配信から、1年が経ちました。時間が経ってもぽつぽつといろんな方に日本語でプレイしていただけることを、改訳を担当した者として大変嬉しく思っています。
本作についてのさまざまな感想を見るのが好きで、そのなかで「よくわからない」「理解できない」と多くの感想をいただくことについて、自分なりに考えて、『幽霊』と『通りすがり』をキーワードに、軽めの解説コラムを書きました。
一度本作を触ったことがある方に向けた読み物となっています。
この先に答えはなにもありませんが、既にプレイされた方も、これからプレイする方も、ずっとプレイする予定がない方にとっても、Kentucky Route Zeroという作品をプレイした体験が、より楽しくなる一助となれば幸いです。
(注意事項)
- 筆者はKentucky Route Zeroの日本語翻訳の改訳を担当しましたが、本コラムは開発者・販売社とは一切関係のない一個人の見解です。
- 作品の内容・展開について多く触れていますので、ご留意ください。

幽霊
本作はいま・ここには存在しないもの、「幽霊」を見ようとする作品です。
この作品での「幽霊」とは、個人の亡霊や怨霊のことではなく、もっと広く『かつてあったけれど、いまはなくなってしまった人や場所や存在そのもの』を指しています。「~ない」と否定形で終わる文章がとても多いことも、本作が「ない」ものについて語ろうとしていることを示しています。
幽霊は見えないし、存在しません。だから「何もわからない」「虚無だ」という感想は、本作を遊んだ人の感想としてまったく正しいものだと思っています。『ゼロ』という言葉そのもの、そしてその円の中が空洞であるように。
たとえば、コンウェイという途中からいなくなってしまう登場人物について、この作品はふしぎな語り方をします。

最初、プレイヤーはコンウェイの発言を選択したり、歩いたり走ったり自由に行動できます。選択肢や行動によって大きな変化が生じるわけではありませんが、彼には行動の自由があります。
ある場面でコンウェイは事故に遭い、自由に走ることができなくなってしまいます。事故の後、プレイヤーはかなりの時間をコンウェイの不自由な足とともにゆっくり歩く時間に費やします。少しずつ、行動が不自由になる不安をプレイヤーは強制的に体感させられます。
そして、プレイヤー≒コンウェイは途中からまた自由に走れるようになります。「負債」を背負うことで。

走れるようになるのと引き換えに、プレイヤーは徐々にコンウェイのことを自由に動かせなくなります。プレイヤーが操作するキャラクターがコンウェイではない場面が増え、彼は選択肢のないまま取り返しのつかない契約を結んでしまいます。
やがて、コンウェイはプレイヤーが知らない場面での飲酒や単独行動が増え、プレイヤーのコントロールから外れていきます。コンウェイについてゲーム内で語る言葉も、最初のように直接発言を選ぶのではなく、川の語り部の昔話の一部や監視カメラに残っていた映像の解析など、間接的であやふやな言葉が増えていきます。
そして、まったく意図していない場面で唐突にプレイヤーは彼との別れを迎えるのです。

彼がいなくなった後、コンウェイについて語る人はほとんどいません。彼が存在していたことを証明するのは、一緒に旅をしてきたシャノンが着ているジャケットとコンウェイが連れていた犬だけです。町に弔いの歌が響き、ゲームはひとつの終わりを迎えます。

それは、無名で親しい人のいなかった人物が存在しなくなるまでの旅路です。
この作品は、コンウェイの言葉や内心を表わす直接的な台詞ではなく、徐々にコントロールできなくなるキャラクター操作や視点変更というゲームの手法を通じて、「コンウェイという存在がいなくなること」がどういうことなのか表現しているのです。
時に「雰囲気ゲーム」と評されるように、この作品は直接的な言葉・物語で語らない余白だらけです。その余白には、上で示したようにたくさんのふしぎな言葉と様々に工夫を凝らした音・画面・演出によって作り出される雰囲気が満ちています。雰囲気とは、「幽霊」がいることを伝えるためのメッセージです。
この作品の雰囲気が素晴らしいと言われるのは、そこに「幽霊」が満ちているからです。


「幽霊」が具体的に何を指すのか、はっきり語られることはありません。
例えばそれは、喪われたアメリカンドリームのことだったり、ある地域の労働者の歴史だったり、懐かしいビデオゲームだったり、いなくなってしまった大切な人だったり、あるいはいつかなくなるすべてのもののように、プレイしたあなたが存在していたことすら知らないものなのかもしれません。それとも本物の幽霊と同じように、空白のなかに見えるものは人によって違うのかもしれません。
もちろん、幽霊を見るのは人によって向き・不向きがあります。幽霊を見ようとすることは、時に危険なことでもあります。けれど、もしあなたがこのゲームになにか雰囲気があると思ったのなら、その雰囲気のなかに「幽霊」がいたのを感じ取ったのかもしれませんね。
通りすがり
ゲームのなかで、プレイヤー≒操作キャラクターはずっと通りすがりの存在です。
Kentucky Route Zeroという作品は、ケンタッキー州に住む慎み深い地元の人と同じく、たった数時間で通りすぎていく人に大事なことすべてを打ち明けるようなことはしません。
本作は不思議で幻想的なシーンをたくさん見せてくれますが、同時に厳しいくらい現実的です。

通りすがりの観光客が地元の込み入った会話に紛れ込むことができないように、作中の誰も通りがかっただけのプレイヤーに経緯を一から説明することはありません。彼らは彼らの現実をほそぼそと生きていて、関わった時に必要に応じた部分しか話をしません。もちろん、すこし関わった程度の仲である彼らが、その後どうなるのか知る由もありません。
本作では、フィクションらしいプレイヤーへの親切な導入や説明は徹底して排され、プレイヤーはずっと自分の立ち位置がよくわからないまま、どこか突き放されたような疎外感を常に味わうことになります。冷たい現実のなかでさまよいながら生きる人々と同じように。
「マジックリアリズム」と評される本作の『リアリズム』の部分は、こういう厳しいところに表れています。そのリアリズムは、一般的に楽しい体験とは言いがたいですが、ゲームを通じて辛い現実という「悲劇」を表現するためのひとつの手法となっています。

キャリントン:いや、「迷ったと感じるべき」なんだ、ジョセフ。我々が道に迷い続けているように。あの哀れな、放浪する雇人サイラスのように。道をさまよい、帰るべき家を探しながら。
一方で本作は、冷たさや厳しさだけでなく、プレイヤーへ不思議な感覚や驚きを常に与えます。
視点を変え、見る角度を変え、小説やテキストアドベンチャーや歌や演劇や電話など様々な手法を使って、直線的にストーリーを語らないその語り方は、ゆっくりと進む物語に驚きや新鮮さを与え、時にプレイヤーを混乱させます。ですが、その奇妙な語り口によって、このゲームは「悲劇」を辛く悲しい物語としてだけ見せるのではなく、常に別の見方や表現の可能性があることを提示し続けています。


本作における「マジックリアリズム」の本当の『マジック』の部分、それは見た目や起きる出来事の超常さ・非現実性以上に、ゲームがプレイヤーに生じさせる経験の中にあります。その魔術とは、ゲームという媒体の中でたくさんの異なるメディア・視点・時間を精巧に組み合わせ、プレイヤーが操作することで、各プレイヤー固有の不思議な経験を生じさせることです。
本作の筋書きや結末に分岐はありません。けれど、みんな同じゲームをプレイし、同じ「悲劇」を見てきたはずなのに、本作をプレイしてきたプレイヤーに残るものは人によって正反対ほど大きく異なります。
徒労、虚無、拒絶、希望、喪失、漂流、安堵、後悔、祈り、休息。

それは、「悲しい」・「考えさせられる」といった悲劇に対する紋切り型の感情や言葉以外の、あなただけが持ちうる経験と感情です。本来ひとが「悲劇」に直面したとき、他人が語るどんな感情も言葉も、『あなた』にはあてはまらないのと同じように。
だから、プレイヤーは通りすがりとして、どんな受け止め方があってもいいし、もしそうしたいなら受け止めなくても構わないのです。
飽きて途中で積んでもいい。興味のないところは飛ばして、最終章からはじめてみてもいい。忘れられずにもう一度プレイしてもいい。きれいな場所や歌だけを思い出してもいい。合わなければ、低評価を付けても、そのまま忘れてもいい。
本筋とはなにも関係のない、あなたが抱いていた存在しないヘビがぐんにゃりしてしまったことをどうしてか憶えているだけでも。

そしてもし、あなたがもう少しこの場所やここにいる・いた人たちのことが気になるのなら、もう一度はじめからゼロ号線を辿ってみるのも楽しいかもしれません。
ここは繰り返す円環の場所です。
再びの旅路では、見知ったものや多くの発見に出会うこととなるでしょう。寄り道が好きな人、そして待ち方を知っている人であれば、より多くの文章やシーンや展開、人々が大切にしていたものや失くしたもの、この場所と作品が抱えてきた数えきれない隠れた断片を見つけることができるかもしれません。



そこには、野心的なまでに語ろうとし語り尽くせないもので満ちています。
取り残されたアメリカ・ラストベルトの悲しみと孤独、忍び寄るグローバリズムとコミュニティの衰退、近代という時代が遺した功績と挫折、避けがたい老いと取り返せない時間、個人・地域・歴史の記憶と忘却、疎外された人々とその居場所、数えきれない文学・芸術・メディア作品の引用と展開、都市伝説とフォークロア、芸術と実験、などなどが。
そして、少しずつ場所や人々や時間を知り、見知らぬ場所が馴染みのある場所へと変わっていくことで、単なる通りすがりの時とはまた違った景色が見えてくるはずです。

あとがき
最後にごく個人的な感想を。
Kentucky Route Zeroは、日本語翻訳について当初いろいろと恵まれない状況にあった作品です。それでも、打ちひしがれてよろよろとした美しい老犬のような作品とたまたま出会えたことは、自分にとって望外の喜びです。
美しく静かで余白に満ちた作品をそのままお届けできるように翻訳しました。
「よくわからなかった」「不思議だった」「理解できなかった」は、自分にとって最高の褒め言葉です。たくさんの作品があるなかで、なにかの縁で遊んでもらって、いまのあなたの中にないものを少しでも届けることができていたらうれしいです。
Thank you for playing!
2024/9/20
文責 ashi_yuri
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